コルド大王のブログ

シンクタンクで研究員をしてます。

野矢茂樹『はじめてかんがえるときのように』 感想・考察

 はじめて考えるときのようにを久しぶりに読み返してみたので、その感想・考察を書いてみました。

はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内 (PHP文庫)
 

 

1.私が思う考えるとは

私がこの本に初めて出合ったのは、10年近く前(当時大学生)である。当時の指導教官に「もっと自分の頭で考えろ。」と厳しく叱責され続けていた折、偶然この本に出合った。平易な文書で書かれているが内容は深く、以来私の愛読書となっている。

 まず、「考えること」についての筆者の考えにはおおむね同意できる。筆者は、考えることについて、問いを抱え込んだままアンテナを張り続ける、時には空っぽにすることが重要であると主張しているように思う(事実NHKラジオ番組で筆者はそのように発言していた)。自分なりにこの状態をかみ砕いて表現すれば、パソコンのスリープ状態が最もしっくりくる。パソコンは、一定期間起動しなければ、画面が暗くなるが、マウスを少し動かすと再び反応し画面にスイッチが入る、筆者が主張する考えている状態とのはこのような状態であろう。外山滋比古『思考の整理学』においては、考えることをビールづくりにおける酵素発酵に例えていた。問いをしばらく寝かせてほっておく。そうすると次第に考えが煮詰まってくると言うのだ。「見つめる鍋は煮え立たない」のことわざを引用し、思考する際は、積極的に時間を空けることを推奨している。

 繰り返しになるが、これらの考えにはおおむね同意できる。しかし、私は考えることについて次の行為を付け加えたい。それは勝ち抜き戦である。どういうことかというと、ある問いについて暫定的に最適解を自分の中で定める。(若しくはある事象について仮説を立てる。)時間を空けて最初に定めた解とは異なる解を設定し最初のものどちらがより確からしいかを戦わせる。そしてより説得力の強い解が生き残る。以下、この繰り返しの作業である。(勿論、この一連の過程においては筆者の主張するように問題そのものを問う作業を含まれる。)

私が思う考えるととは、筆者の主張に加え、頭の中で主張と主張が激しく戦い凌ぎを削る、そんな状態を思い起こすものである。

 

2.論理は考えないためにあるとの筆者の主張は本当か

 筆者は論理について、考えないためにあるとの大胆な主張を述べていたが、これは本当だろうか。確かに、論理を因果関係の論証(AならばB、BならばC、ゆえにAならばC)という風にとらえてば筆者の主張は正しいであろう。どんな論証でも因果関係をすべて記号に落とし込めれば、その後の作業は考えるとは言わないとの意見は的を得ているように思う。しかし、これは論理について一面しかとらえておらず、誤りであると主張せざるを得ない。論理に考えるとは筆者の言う因果関係の説明の他に、事象を漏れなく、ダブりなく分類するという作業が含まれる。俗に言うMECEのグルーピングである(横の作業との言い換えてもよい)。この作業は先の因果関係の説明のように簡単にはいかず、時には様々な試行錯誤が必要であると考える。私の大学時代の指導教官からも「ロジカルシンキングのうち、因果関係の説明は誰でもできる。しかし、分類はかなりの訓練が必要である」と言われた。筆者はロジカルシンキングのうちMECEの分類作業についてどのように考えているかは気になるところである。ちなみに著書「論理トレーニング」にもこの言及はない。もし、ロジカルシンキングについて「分類作業」の概念が抜け落ちているとしたら、大学教授としてあまりに片手落ちであろう。

 

3.考えることはいいことか

 この本を読むと、「考える」という行為は素晴らしいことであり、極力様々な事象について思考を凝らすべき、という考えに至らないだろうか。さすがにそれは言い過ぎかもしれないが、この本を読み終えた後「よし、今からいろんな事について考えよう」と思う人は少なくなさそうである。ここで、果たして考えることはそこまで必要であろうか?という疑問が私の中で生じた。筆者も先に引用した外山氏も大学教授であり、普段数多くの学生に接している事から、これらの著書は学問・研究をしている学生を主な対象として書かれているように思う。勿論、これらの方々は考えることが本文であるから、そうした作業が必要であることは言うまでもない。しかし、それが普遍的にあてはまるか?かと言われればそうでもなさそうである。以下では、考えることのデメリットについて考えたいと思う。

世の中の優れた実業家には、あれこれ思いついてことを片っ端から実行にうつしている人が少なくないように思う。私の大学の同級生で卒業後すぐに起業し、現在複数の会社を経営している人がいるが、とても色々考えているようには見えない(が成功を収めている)。場合によっては意図的でも思考を停止しバカになることを必要ではないだろうか。思考は動きを遅くし、しばしば行動の邪魔になることもあるように思う。私の例で恐縮であるが、初めてフルマラソン、ウルトラマラソンにエントリーしたときはあれこれ考えずに参加を決断した。考えるという行為に時間を割くと、次第に当初の熱意が逓減しそれがマイナスに作用することもありうる。

考えるという行為も、状況に応じて使い分けるべきであり、時には意図的にでも、それをやめることも重要であると考える。